2008年02月15日

浄瑠璃

日本!って感じですよね!

仏教において、清浄(しょうじょう)、透明な瑠璃のこと。薬師如来の仏国土。
日本の伝統芸能における語り物の総称(本項で詳述する)。また地方によってはこの語を特に代表的な流派である義太夫節を指して用いることがある。
人形浄瑠璃の発祥については、本稿の「起源」- 「義太夫節の完成」の項目を、その上演についての詳細は、文楽を参照のこと。

浄瑠璃(じょうるり)は、日本の伝統的な音曲(音楽)の一種。

浄瑠璃は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章を語り、本来はこれに操り人形が加わる芸能である(ただし人形を加えない流儀も多い)。詞章が、単なる歌ではなく、劇中人物の台詞やその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を以てし、浄瑠璃系統の音曲をまとめて「語り物」と呼ぶのが一般的である。

なお、浄瑠璃は義太夫節のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。

その起源は、中世末期ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』(『浄瑠璃物語』。浄瑠璃御前と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたもの)を語って神仏の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「浄瑠璃」の名もここから生れたものである。その内容はだいたいにおいて享禄年間(1528?32年)には完成していたと考えられる。最初期は平曲、謡曲、説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558?70年)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方の盲人であったが(上方地唄)、文禄年間(1593?96年)にいたってこれが傀儡子(くぐつしもしくはかいらいし)の伴奏として用いられるようになり、さらにこれと浄瑠璃節が合体することによって、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。

浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸期に入ってからである。杉山丹後掾と薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになった。杉山丹後の門下からは江戸半太夫(半太夫節)、十寸見河東(河東節)が、薩摩浄雲の門下からは薩摩外記太夫(外記節)、大薩摩主膳太夫(大薩摩節)、都太夫一中(一中節)、竹本筑後掾(義太夫節)などが輩出し、浄瑠璃の歴史の上で一時期を画することとなった(半太夫節と外記節は河東節に、大薩摩節は長唄に吸収されて残っている)。以上のうち義太夫節を除くものを一括して古浄瑠璃と称する。

この時期の詞章・戯曲はいまだ未発達なものが多く、かならずしも高い評価を与えることはできない。ただし、江戸を中心にして発達した「金平浄瑠璃」と呼ばれる一連の作品は、後に歌舞伎の荒事に大きな影響を与えることになった。

貞享元年(1684年)ごろ、竹本義太夫(後に筑後掾)が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者近松門左衛門と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術としての鑑賞に耐えうるものとなった。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、浄瑠璃の流派は多分に個性的な名人芸の代名詞として行われ、決してそれがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったが、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられつづけることになったのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマツルギーを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫こそは浄瑠璃におけるひとつの完成形であるというにふさわしい。
(以上、ウィキペディアより引用)

歴史を感じます。

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